無用の用 ― 何もしないことに、ちゃんと意味がある

心を整える

最近、「無用の用」という言葉に出会ってから、
ずっと頭の片隅に残っている。

“役に立たないように見えるものが、実はとても大事だったりする”
という考え方。

最初は難しそうに聞こえたけど、
調べてみると、たとえば木の例えが出てくる。
まっすぐで硬くて形のいい木は、すぐに切られて家の材料になるけれど、
曲がっていたり、傷があったり、使いづらい木は生き残って、
森の陰を作り、鳥を休ませ、やがて森を支える。

“役に立たない”からこそ“長く存在できる”。
それが“無用の用”。

この言葉を知ったとき、私は思った。
――なんだか、人生の多くってこれかもしれないなって。


昔の私は、常に“意味”を探していた。
何かをしていないと落ち着かなくて、
「役に立ててない自分」に価値を感じられなかった。

家事も育児も、時間をムダにしないように詰めこんで、
生産的に生きることが“いい母親”“いい大人”の証だと思ってた。

でも、無用の用という言葉に出会ってから、
少しずつ考えが変わってきた。

何もしていないように見える時間にも、
ちゃんと意味がある。


子どもたちを保育園に預けて、
家でひとりになるようになってから、
最初のうちは、罪悪感でいっぱいだった。
「私だけ楽してる気がする」「本当にこれでいいのかな」
そんな思いがぐるぐるしていた。

でもあるとき、こんな言葉を聞いた。

「いざというとき家族の看病をしたり、
急な用事に動ける“フリーな存在”って、
家族にとってはすごく安心なんだよ。
“何もしてない時間”が、
家族にとっての余白や守りになってるんだ。」

その瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。

――そうか、私が“動ける状態でいること”も、
家族にとっての支えなんだ。

それってまさに、無用の用だなと思った。
誰かを直接助けていなくても、
“在る”ことで誰かを安心させている。
それだけで、ちゃんと役に立ってるのかもしれない。


思えば、子どもが動画を見てぼーっとしている時間も、
私が何もできずにただ座っている時間も、
見えないところで大事な回復をしているのかもしれない。

無駄に見えること、役に立たないように思えることが、
後になって「必要だった」とわかる瞬間がある。

それを信じられるようになってから、
焦ることが減った。

今日、特に何もしなかった日でも、
ちゃんと意味がある。
そんなふうに思える日が増えるようになった。