「家で子どもを見られる人間でいたかった」私へ
ようやく、子どもを預けられるようになった。
でも、それで気づいたのは——
私は“家で子どもを見られるような人間じゃなかった”という事実を、ずっと受け入れたくなかったんだ、ということ。
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理想の母親になろうとした日々
私の母は、私の話を聞いてくれなかった。
肯定もしてくれなかった。
だから、私は母親になったら絶対に違う形にしたいと思った。
娘の話を全部聞いてあげたい。
寄り添いたい。
安心できる母でいたい。
そう思って、必死にそばにいた。
でも、二人目が生まれたとき、それが一気に崩れた。
娘と息子の両方の心を満たすのは、思っていたよりずっと難しかった。
どちらかを“適当に扱う”なんて、どうしてもできなかった。
そして、できていない自分を認めるのが、何より嫌だった。
母のようになりたくなかった。
子どもを雑に扱う母親には、絶対なりたくなかった。
でも私は、もともと誰かの要望をずっと叶え続けるタイプじゃなかった。
「こうすれば安心」という“育児の正解”を信じているうちは安心できたけど、
それが崩れたとき、私は完全に迷子になった。
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「預ける」ことで見えたこと
二人分の心のケアを一人で続けるのは、やっぱり無理だった。
そして、私は気づいた。
子どもを保育園に預けることで、
ようやく自分の“余白”を取り戻した。
私は聖人じゃない。
怒ることもあるし、感情的にもなる。
理想通りの母親でいられない自分を、やっと少しずつ許せるようになった。
保育園で過ごす子どもたちは、私が与えられない体験をたくさんしている。
先生たちや友達とのやりとり、暖かい空気。
私が家でぎりぎりの表情でいるより、
子どもたちはずっと健やかに過ごしている。
そして私は、
“自分でいられる時間”を手に入れて、
また子どもたちに優しく戻っていけるようになった。
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「楽をする=悪」じゃなかった
正直、怖かった。
「預けるなんて」「楽してるだけ」と思われるのが。
夫にどう見られるかも気になった。
“お前ばかり”という声が、いつも自分の中に響いていた。
でも今は、わかる。
楽をすることは、誰かを不幸にすることとは違う。
私が楽になることで、子どもも夫も穏やかになっていく。
私が幸せでいることが、家族の安心につながる。
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おわりに
きっとまた、誰かのために自分を削る日がくる。
そのたびに、落ち込むし、自分を責めると思う。
でも、今度は少しだけ早く立ち直れるはず。
そのために、私はこれからも学び続ける。
“楽をすることを、怖がらない”ために。


